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メモリアル・デイ(Memorial Day)の歴史から考える

日本では5月といえば、祝日が続く大型連休として、ゴールデン・ウィークがあります。米国ではそうしたものがなく、5月の祝日は、メモリアル・デイ(Memorial Day)だけです。現在のメモリアル・デイは、各地域でパレードも行われますが、一方では夏の始まりを意味する日でもあるので、家族や友人たちと集まって、外でバーベキューをしながらビールを飲んだり、子ども達が近くのプールにいったりするという楽しいイメージがあります。が、本来は、戦争や軍事行動で亡くなった戦没者を偲ぶ日であり、追悼の行為として墓地や慰霊碑の汚れや垢を洗い流すことも行われています。



People cleaning and decorating graves at Pineview Cemetery on Memorial Day weekend. Eiler, Terry (Photographer). 1996/05. Call Number/Physical Location. AFC 1999/008: CRF-TE-C028-06. Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/item/cmns000929/


このメモリアル・デイは、かつては、亡くなった兵士の墓を飾るという意味から、デコレーション・デイ(Decoration Day)と呼ばれていました。そのデコレーション・デイは、1861年から1865年まで続いた南北戦争(Civil war)によって亡くなった兵士を弔い、追悼するところから始まりました。
 
南北戦争の背景は、商工業が発達していた北部と、綿花を中心とする奴隷制プランテーションを基盤にした農業が中心であった南部が対立していました。それは、産業構造の違いだけでなく、北部は連邦政府の権限を拡大し、イギリス製工業製品に対抗するための保護貿易を発展させようとし、さらに奴隷制の廃止を目指し、一方、南部は、州の権限を重視し、綿花の輸出を増大させるための自由貿易を維持しようとし、さらに奴隷制はプランテーション維持のために必要とするといった、政治体制や貿易、そして社会体制の在り方に大きな違いがありました。
 
この南北戦争で犠牲になった人々の数は、北軍及び南軍の兵士だけでも、62万人以上といわれ、一般市民や奴隷的立場から解放された人々も含めると75万または80万ともいわれています。当時の米国の人口は3144万人と言われているので、その2%以上が犠牲になったという事実は、そのあとの第1次世界大戦や第2次世界大戦も含めてどの戦争よりも、ずっと高かったことになります。1)
 
南北戦争後の、北軍と南軍の兵士をともに追悼する全国的な最初の式典は、1868年5月30日にアーリントン墓地で行われました。この1868年以前の段階でも各地で、市民が亡くなった兵士を追悼するという独自のデコレーション・デイは行われていたようです。そうした早い時期の例の一つとして、近年知られているものは、南北戦争中に、サウスキャロライナ州のチャールストンの競馬場施設に、南軍の捕虜となって収容されていた北軍兵士の話です。彼らは、病気と寒さのために命を落とすことになり、南軍によって、競馬場の裏に集団埋葬されました。そのチャールストンが、北軍の攻撃によって陥落し、南軍が撤退したあと、奴隷状態から解放された、アフリカン・アメリカンの人々が、その街に残り、集団埋葬地から北軍兵士の遺体を掘り起こし、白い柵で囲まれた新たな墓地にそれらの遺体をあらためて埋葬し直し、「競馬場の殉教者」という言葉をその柵に刻んで追悼したと言われています。また、それらの人々は、その競馬場で、奴隷制解放する側であった北軍の勝利を喜び、パレードもし、そこには、アフリカン・アメリカンの北軍部隊も参加したようです。2)
https://today.cofc.edu/2017/05/29/memorial-day-history/ )
 
下の写真は、その当時のスケッチで、議会図書館にあります。

Union Soldiers cemetery, "Martyrs of the Race course," Charleston, S.C. Waud, Alfred R. (Alfred Rudolph), 1828-1891, artist. [between 1860 and 1865] Library of Congress Control No. 2004660670. Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/item/2004660670/

北軍の兵士としてアフリカン・アメリカンの人々は、戦闘を担いました。下の写真は、ワシントンDCを守る部隊の1つであった、第4歩兵連隊E中隊のメンバーの写真です。こうした写真もとても貴重であり、非常に興味深いものだと思います。

[District of Columbia. Company E, 4th U.S. Colored Infantry, at Fort Lincoln] Photograph of Washington, 1862-1865, view of the defenses of Washington. Shows 27 African Americans in two lines with rifles resting on the ground. Smith, William Morris, photographer. Library of Congress Control No. 2018667050. Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/resource/cwpb.04294/

奴隷解放運動家であったフレドリック・ダグラス(1818-1895) は、1871年の5月30日に、アーリントン墓地で、「無名兵士のために」というスピーチをしました。彼は、
 
「国家の生命を脅かした者に対して、国家を救うために闘った者と奴隷制のために戦った者と自由と正義のために戦った者を、等しく称賛の念をもって思い起こすべきだ。」と、南北戦争で犠牲になった兵士達、特に北軍の兵士として、奴隷制廃止のために凄惨な戦いをして犠牲となった人々を忘れていけないことを強調しました。3) 


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  メモリアル・デイ(Memorial Day)の歴史から考える 日本では5月といえば、祝日が続く大型連休として、ゴールデン・ウィークがありますが、米国の5月の祝日は、メモリアル・デイ(Memorial Day)だけとなります。 現在のメモリアル・デイは、夏の始まりを意味し家族や友人と集まるといった楽しいイメージがありますが、本来は、戦争や軍事行動で亡くなった戦没者を偲ぶ日であり、追悼の行為として墓地や慰霊碑の汚れや垢を洗い流すことも行われています。 Nichimy Corporation U.S. Office ニチマイ米国事務所